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近代合理主義の根っ子はギリシア・ローマ時代
例えば、「神は死んだ」と嘆いてみせたニーチェのように、西欧人自らが近代合理主義批判を試みると必ずと言って良いほどにその矛先はギリシア・ローマ時代へと向けられます。
こと美術の世界でも同じで、シュルレアリスムの中心人物アンドレ・ブルトンや、コブラの創設者アスガー・ヨルンなどもその源泉をギリシア・ローマの地に見て取り、批判を展開していきます。
フランス北西部で発掘された、紀元前1世紀頃に使用されていたガリア・コインの<美>について語るブルトンの視点などが正しくそれです。
ギリシア・ローマ時代、都市文明からは遠くかけ離れた辺境の地であったフランスはノルマンディー地方の、ブルトンの出身地でもあったその地で発掘されたコインの絵柄に、ローマ帝国によって征服されてもなお残る祖先たちの<別種の美>を見て取ろうとする時に、まずもって矢面に立たされるのが正しくこのギリシヤ・ローマ的『美』のかたちなのです。
丁度、フロイトの『精神分析』を援用して、人類のまだ見ぬ豊潤な「無意識」をせき止める悪玉として「超自我」を仮定し槍玉に挙げたように、本来ならばそこにそうあるべき<野生の美>を抑圧する対象としてこのギリシヤ・ローマ的なるものを批判するのです。
マケドニア王国の硬貨 (紀元前4世紀頃)
このような硬貨をモデルにして
アウレルキ・エブロウィケス族の硬貨 (紀元前1世紀頃)
このような抽象絵画を彷彿とさせるような絵柄にしてしまわざるおえない民の心性を汲み取ろうとするアンドレ・ブルトン
この視点は、シュルレアリスムや抽象表現芸術を批判的に乗り越え<生>に密着した表現を取り戻そうとしたアスガー・ヨルンなどにも終始一貫して見られます。
アスガー・ヨルン Asger Jorn (1914-73)
バウハウスやダダやシュルレアリスムにと多くの先達たちが、その具体的な活動を通して「美的革命」と呼びうるようなかたちで社会変革を試みたわけですが、アスガー・ヨルン曰く
「しかしながら、あらゆる方面から、新たな社会的要請に応えられる新たな神話体系が必要とされていた。まさにそうした形而上学的な引込線のなかに、シュルレアリスムや実存主義、そしてレトリスムもまた、消えていった。」
『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 第3巻』 木下 誠 (翻訳) インパクト出版会 (1999) P.84 AmazonへLINK
というように、そのことごとくが収まりのよい<イズム>の運動へと没していったと言います。
あくまでも具体的な実践において、常に<生>の美的体験を通して社会を創り変えなければならないと考えたアスガー・ヨルンは、表現の更なる刷新を図るべくコブラを始め様々な活動を繰り広げていったわけですが、その晩年に最も熱心に取り組んだのが、古代スカンディナヴィア文化に関する総合的な資料センター「比較ヴァンダリズムのためのスカンディナヴィア研究所」(アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 第3巻 P.81参照)の設立とその活動でした。
これもアンドレ・ブルトンと共通しているのですが、自身の足場の「文明」の掘り起こしの作業へと向かっていったのです。
『比較ヴァンダリズムのためのスカンディナヴィア研究所』機関誌
比較ヴァンダリズムのためのスカンディナヴィア研究所
5世紀に西ローマ帝国へ侵入し略奪の限りを尽くしたヴァンダル族に因んで名付けられた破壊的芸術活動「ヴァンダリズム」の冠に「比較」の文字を上乗せした心情からして汲み取れる、アスガー・ヨルン自らが創造者としてではなく黒子に徹したかたちで、より真摯にスカンディナヴィア各地に現存する古代から受け継がれたであろう<いにしえ>の造形美のデータを収集し後世に伝えることを目的として1961年にこの研究所は設立されました。
そしてまずもって手がけられたのが『一万年のノルディック・フォーク・アート(10,000 Years of Nordic Folk Art)』と名付けられたプロジェクトで、それは古代から中世、近代にかけてスカンジナヴィア各地の聖像・神具に呪具・呪物、農具や工具に衣類に食器にと多岐にわたる領域に、西欧合理主義に絡め取られることなく生き残ったであろう土着の民族の<いにしえ>の造形美を写真に撮り収めアーカイブ化を目指したものでした。
期間にして3年間。当時パリのルーヴル美術館で働いていたフランス人写真家ジェラール・フランチェスキ(Gerard Franceschi)をアスガー・ヨルン自らが雇い入れ、総数2万5千点以上もの写真が撮り収められたといいます。
しかし結果、このプロジェクトは志半ばにして頓挫することとなるのですが、その困難さと言うか、見立ての誤ちが浮き彫りにする世界が次なるテーマです。
ギリシヤ・ローマとケルト
当初アスガー・ヨルン自らが語るところによれば
ルネ・ユイグが著書 『芸術と人間』 で明らかにしているところによれば、 新石器時代の農耕文明期ののち、金属器文化の発展とともに、二つの様式の分化、すなわちハルシュタット様式とラ・テーヌ様式の分化が生じたのであるが、それこそまさに、幾何学的思考とシチュロジー的思考の分化にほかならない。ドーリア人を通じて幾何学的思考はギリシャ に根づき、合理主義的思考を生んだ。それとは反対の傾向は、 アイルランドとスカンジナヴィアで終わった。
『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト 第2巻』 p.204-p.205 AmazonへLINK
ハルシュタット様式
ラ・テーヌ様式
というように当時の考古学知見をもとにした拡大解釈で、ギリシヤ・ローマ的文化とは異質な ラ・テーヌ様式を象徴とした曲線を多用した自由闊達な造形美を自らの足場のスカンジナヴィア半島にも見て取ろうとしました。 その造形美イコール<野生の美>という図式でもって、ギリシヤ・ローマ国家の検閲の目が届きにくいヨーロッパ最北の地という地理的条件であれば尚のこと可能であったであろう、よりピュアなギリシヤ・ローマ的文明の手垢にまみれることなく生き残った存在としての造形美をです。
ですがここからです。先に見たように『古代ヨーロッパ』=『ケルト』という、それこそギリシヤ・ローマ時代からのヨーロッパ社会通念にすっぽりと収まる地域出身のアンドレ・ブルトンとは異なり、考古学的な知見によっても明らかにその蚊帳の外に位置する、デンマークはユトランド半島で生まれ育ったアスガー・ヨルンのその出自がより事態を困難にし行くのです。
それはプロジェクトの流れからも分かるように、当初予定されていたのは24巻で構成されたビジュアル図鑑でしたが、最終的には32巻へと膨れ上がっていったといいます。そしてその補完分に充てがわれる予定だったのがスカンディナヴィア半島北部からコラ半島にかけてのラップランドで暮らす先住民のサーミ人と、当時デンマークの植民地であったグリーンランドの先住民イヌイットの造形美でした。
サーミ人
イヌイット
事ここに至って征服者=近代合理主義の権化のようなギリシヤ・ローマ帝国と、ケルト美術の過剰な装飾が象徴するような自由で闊達な先住民、という単純な二項対立の図式で絡め取ることが困難に成り行くのです。
以下、アスガー・ヨルンの死後に編選し出版された6巻の中からいくつかの写真を紹介したいと思います。
そして、そのプロジェクトが頓挫したが故に見えてきた、自由で闊達な造形美イコール西欧合理主義の手垢にまみれることなく生き残った<野生の美>という捉え方そのものが、当の西欧合理主義の懐で抱かれ熟成されたものではなかろうかということを見て行きたいと思います。
- 2018.10.20 Saturday
- オトグス・ギャラリー
- 14:46
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