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かつてドキュメンタリーと言っていたもの - その1

前回、オトグス・ショップでは震災・戦災・政災などのドキュメンタリー色の強い写真集ばかりを集めてご紹介しましたが、

ショップ再入荷 (05/10) ・ ショップ新着 (05/10)

よくよく考えてみるに、写真という表現媒体(メディア)そのものがドキュメンタリーをバックボーンとしてしか成立しえないメディアであるということが言えると思うのです。
 あたり前と言えばあたり前ですが、それらの表現がセット撮影や、やたらめったらに加工を施されたものであったとしても、その切り取られたものが現実を映し出したものであるという確固たる『信』や、あるいは切り取られることによって初めて立ち現われるであろう、その背後の現実をリアルに感取することによってしか成立しえない表現だと思のです。
 要は、この現実そのものがリアルに存在するものだという生き生きとした確固たる『信』がなければ成り立たない、決定的に『生』を根拠にしたメディアだということです。

ですから、死体を捏ねくりまわして制作されたジョエル・ピーター・ウィトキンの作品を見ても、

Googleで画像検索「Joel-Peter Witkin」

The Bone House: Joel-Peter Witkin ジョエル・ピーター・ウィトキン

Joel-Peter Witkin ジョエル・ピーター・ウィトキン

自らの踵にくっ付けたハリボテでもって自らを犯すピエール・モリニエの変てこポートレートをとってみても、

Googleで画像検索「Pierre Molinier」

そのグロテスクな見た目にかかわらず、「生への執着」と言いましょうか、どこか健全な明るさを感じるのはオトグス・スタッフだけでしょうか。

 ハンス・ベルメールの緊縛写真の、肉の襞が織りなす陰翳や、等身大に形作られ撮り収められた球体関節人形の継ぎ目のうねりなども、現実的、肉感的<肌ざわり>の記憶なくしては感取できないたぐいのものだと思います。

Hans Bellmer: Photographe ハンス・ベルメール

Hans Bellme ハンス・ベルメール

ハンス・ベルメール 〔骰子の7の目 シュルレアリスムと画家叢書 - 2〕

サラーヌ・アレクサンドリアン (著), 澁澤 龍彦 (翻訳)

ベルメール自らも写真の可能性について語り(最終的には批判的であったそうですが)、人形なら人形の、その立体的表現の味噌である素材の質感に見る者の意識が向かうのを避け、よりシンボリックに、あえて写真を用いて2次元の世界へと落とし込み、健全な人間なら否応なしに思い描くであろうアナロジーとしての『生身の体』の、その派生したシンボリックな意識を利用して対比的に自らのうねりの世界へと誘おうとしたのだと思います。
 まさしく写真こそ、『ことば』の延長線上にしかと存在するシンボリックな意識を補強するにはうってつけの媒体(メディア)だということです。
 ですから、ウィリアム・エグルストンの写真を一枚見て、そこに強烈なアメリカの<地金>を一瞬にして感じ取ることができるのも、この写真のシンボリックな意識を補強する特性によってだと思います。

Googleで画像検索「William Eggleston」

William Eggleston: The Hasselblad Award 1998 ウィリアム・エグルストン

William Eggleston, Gunilla Knape, etc (著) ウィリアム・エグルストン

人々の脳裏に、はなっから存在し共有されては来たが、どこか漠然としたそのイメージに確固たるフォルムを与えるのです。どこにでも転がっているこの日常の悲喜交々の中の一瞬の光景を切り取って、皆のイマージュの<共有財産>とするのです。
 ちなみにウィリアム・エグルストンをリスペクトし、コアなアメリカを描き出そうとして結果的にそうとうに面白くない映画『デヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー』などと見比べてみると面白いと思います。

この<動きのカタルシス>が邪魔をしてとっちらかった映画と見比べるに、写真と映像が似て非なるものであるということを改めて実感させられます。

 そして、この先です。実はこの先のとこを絡めてご紹介したく、オトグス・ショップの貧相な在庫の中から関連性の高そうなものをかき集めてご紹介したのが前回で、発生からもう2ヶ月以上経ちますが、「東日本大震災」直後にABCニュースとニューヨークタイムズの両サイトに、グーグルのデータを用いてアップされた不謹慎なまでに良く出来たインタラクティブな図像の、

この遠く離れた異国の惨劇をいとも涼しげな「天使的まなざし」でもって俯瞰してみせ、我が物としてしまう、正にラスコーの洞窟の時代より西欧社会が築き上げて来た<記憶の外在化>の最終形態を見る思いに駆られて一言二言つぶやきたく、このトピックスをしたためておる次第です。(やはり直後では生々し過ぎたので、あえて今です。)
 我が家のこっぱずかしい洗濯物に、車のナンバープレートによる面割れや、近所のスーパーへ買い物に行くオカンの小汚いアッパッパー姿などなど、個々のプライバシーにどっぷり浸ったミクロな視点から、果ては「天使的まなざし」を彷彿とさせる人工衛星からのマクロな視点に至るまで、ほぼリアルタイムに図像の更新を行ないえる環境をもってして、全世界をデータベース化し行くその凄まじさ。
 それだけではありません。YouTubeを買収することによって、世界各国のケータイ特派員(?)から無償で送り届けられて来る事件や事故のホットな映像までをもその身に取り込み、しつこいようですが、今から2万年以上も前の人類が外界からの光が射し込まない洞窟奥深くに、バタイユも舌を巻くほどの写実的表現でもって描き出すことによって生まれた、この「人類最古のドキュメンタリー」(この辺りのことは次回にみっちりとつぶやかしていただきます。)からして現在まで脈々と受け継がれて来た<記憶の外在化>の終着点のような世界を築き上げようとしているのです。

ラスコーの壁画:ジョルジュ・バタイユ著作集

ジョルジュ・バタイユ, 出口 裕弘 (翻訳)

Cave Art 洞窟美術

Jean Clottes (著) ジャン・クロッテ

アルタミラ洞窟壁画

アントニオ・ベルトラン (監修), 大高 保二郎, 他 (翻訳)

かつてのドキュメンタリー、それは報道写真に代表されるような<一から多へ>情報を精査し、その他大勢の人々へ今ある現実を表徴的に送り届けるといった心性、あるいはそう認識され共有されゆく図像なり映像であったと思います。それは、自らを野良犬と重ね合わせてうらびれた街や人を象徴的に切り取ってみせるという、むせかえるようなヒューマニズムに裏打ちされた行為と同列で語られうるような、どこまでも『生』に根拠を置いた、この現実への確固たる『信』を『共同幻想』的に表徴する表現行為であったのだと言えると思います。そしてまた、それが可能であったのです。

しかるに現在、壮絶な事故現場に、生きながらにして首を切り落とされる者や、皮を剥がれ、火を放たれ、なぶり殺され行く者に、はては人知を超えた天災を俯瞰して見せ、地を這う者の眼前の光景をも瞬時に情報化し止めどなく供給され行く中。きしくもマクルーハンが「メディアはマッサージである」と言った通り、文字通りに、お尻がむず痒くなり〜の、吐き気を催し〜の、眩暈をおこし〜のといった身体的変調をきたすほどに<精神のツボ>は刺激され続けるのです。

新装版 メディアはマッサージである

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そんな直接的表現を向こうにまわして、ケータイ特派員(?)とは異なるかたちで、この『生』の現実を表徴しえたり、詩的表現でもって絡め取ることができうるのでしょうか。
 おそらくは、それらの媒体が『生』に彩りを与えて補強するものではあっても、決して『生』の根拠を保証するものではないという、この問題意識においてのみ創造の根は育まれ行くのだと思います。


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