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近々、オトグス・ギャラリーがオープンします。 PART5


 

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ベラスケス 『ラス・メニーナス 女官たち』 (1656年)
 

 17世紀のスペイン、国王フェリペ4世のもと、宮廷画家としてそのキャリアを積んだディエゴ・ベラスケスの言わずと知れた一作『ラス・メニーナス 女官たち』。
詳しくはウィキペディアをご参照願うとして、王女マルガリータを中心に、その周りを取り囲むようにして女官や侍従に、果ては、その描き手自身であるベラスケス本人をも画面に登場させ、あの手この手でもって、後ろの<鏡の中>にひっそりと佇むフェリペ4世の視点でもって宮廷生活における日常を描きだしたという、何ともややこしい一枚がこの『ラス・メニーナス 女官たち』ですが、何ゆえかくも今日に至るまで西洋美術史において注目される存在であり続けるのでしょうか。

オトグスでは常に物事を単純に見つめます。

見事な陰影と筆のタッチでもって、この日常を生々しく切り取とってみせるベラスケスの技量を堪能するだけで十二分に傑作ですが、それを一度、横に置いといて、現代人の眼で改めて見つめ直すと、あの手この手の創意工夫がひとえに、ベラスケスによって肖像画を描かれし国王フェリペ4世自身が、その光景を自ら携えたカメラでもって写し撮った一枚のスナップ写真を彷彿とさせるような、そんな視点へと向かわせるためのものではなかったのかということです。
写真の発明はまだ先の話しです。フェルメールと同様、その使用が取り沙汰されるカメラ・オブスキュラの映し出す淡い逆像がベラスケスの想像力をかきたてたかどうかは知りませんが、宮廷での日常を生々しく描き出そうとする試練の先に、その一瞬を<光の像>として、まさしく<瞬時>に切り取とってみせるカメラ的視点を髣髴とさせる絵画を生み出すに至ったということは間違いはありません。

例えば下掲のように、フランスの裕福な家庭に生まれ育ち、20世紀初頭のヨーロッパ社会の日常を活き活きと切り取ってみせた<偉大なるアマチュア・カメラマン>ことジャック=アンリ・ラルティーグのスナップ写真と見比べてみてください。その視点の類似性は明らかです。

※クリックで拡大表示


 

 だから、その先取り的視点が「すごい」とか、現在から見れば単なる「徒労であった」とか、後付けでゴチャゴチャ言いたい訳でもありません。単純に言っちゃえば<そんなことろ>に落ち着きそうなこの一枚の絵画が、何ゆえかくも今日に至るまで西洋美術史においては注目に値する存在であり続けるのか。そこに横たわるアプリオリな前提が問題です。
 


 

 ベラスケスが活躍したスペインをはじめ当時のヨーロッパ(当然アジアは蚊帳の外ですが)では、社会における画家としての存在のあり方が、今日の芸術家の『それ』とは違い職人的なものとして扱われていたといいます。例えばゴッホをはじめ印象派以降のような、画家の<魂のほとばしり>を天賦の才能でもって作品へと反映させる、あるいはそう読み解くといった文化が形成されていた訳ではなく、宮殿を彩る装飾や調度品の生産者たる工芸家として『ポートレイト』や『宗教画』を依頼人の趣向に合わせて描く、ただそれだけの職人的存在として広く認識されていました。
当時すでに今日で言うところの芸術家として社会的ステータスを得ていたのは、「音楽家」や「詩人」などの、いわゆる<無形の創作>に従事していた人々で、「画家」という存在はその技巧がどれだけ優れたものであっても、所詮は筆と絵具といった<形而下の柵>でもって事に当たらざるを得ない不自由な存在だとされていました。

ここが味噌です。例えば1648年にフランスでは画家と彫刻家の地位向上を目指して新たに『王立 絵画・彫刻アカデミー』が設立されましたが、そうして希求した参入先というのがいわゆる「自由学芸(アール・リベロー)」の世界だったといいます。別名「自由七科」と呼ばれる「自由学芸」とは、文法、弁証法(論理学)、弁論術の言語系三科と、算術、地理、天文学、音楽の数理系四科からなる世界で、当時、手業でもって報酬を得るその他の職人たちと同列扱いであった画家や彫刻家が属していた「手職(アール・メカニック)」とは一線を画す、より<人智>に直結した営みとされた文字通りにアカデミックな分野に用いられた称号でした。(参考文献 『芸術家の誕生 - フランス古典主義時代の画家と社会』 ナタリー・エニック (著) 岩波書店 2010 AmazonへLINK

国は違えど、まさに、この「自由学芸」なる世界に、新たに「画家」という項目を付け加えるに相応しいエポックメーキング的一作として、このベラスケスの『ラス・メニーナス』は存在していたということです。

現にベラスケス自身、『ラス・メニーナス』を描き終えた後に、当時の職業画家としては異例であった貴族の証『サンティアゴ騎士団』への入団が認められるわけですが、よほどの思いがあったのでしょう、その証である紋章を、当の『ラス・メニーナス』の中で佇む自らの胸元へ新たに描き加えたといいます。
 

ベラスケス 『ラス・メニーナス 女官たち』 【部分】
 

 この一件からしてベラスケス自身そうとうな自覚を持って『ラス・メニーナス』を描いたであろうことが想像できます。そして、それ相応の評価を得たというわけです。

では、この西欧社会においてより尊ばれてきた「自由学芸」的なるものとはいったい何だったのでしょう。
その<生まれの里>に立ち返った時、すべての疑念は一気に氷解するのです。
 


 

 その歴史は古く、古代ギリシヤ時代にその思想的発芽がみられ、ローマ時代の末期の5世紀後半から6世紀には上記のような言語系三科と数理系四科からなる明確なカテゴライズ化がなされていたといいます。この「自由学芸」の世界が永きにわたってヨーロッパの人々の論理的思考を育み近代合理主義の礎を築いたであろうことは誰の目にも明らかですが、ここでもまたひとつ、サラリと聞き流すことのできないアプリオリな前提が出てきます。
それは、なぜあえて厳選された論理と数理の世界に「音楽」を組み込んだのかということです。「音楽」そのものの成り立ちがピタゴラス音階に代表されるような数理に則ったものだとは理解できるのですが、オトグス店主のように極東アジアの島国の民が思い浮かべる「おはやし」や「太鼓」の音色に天界へと繋がる数理を読み解くことは困難ですし、現にヨーロッパのキリスト教会においても楽器やポリフォニーの使用を風紀が乱れるなどとの理由で度々禁止していたではないですか。
古代ギリシヤ時代より多様な表現でもって西欧世界を彩ってきた絵画や彫刻ははなからバッサリと切り捨ててきたのに、なぜあえて、そんな<ややこしい>「音楽」を現代とは比べ物にならないほどに厳格であったアカデミズムの領域にあえて組み込んだのでしょうか。単純に観念的な形而<上・下>の問題だけでしょうか。

少し話しがそれているようにみえますが、もう少し詳しく見ていきます。

多くの識者がその「自由学芸」の成り立ちを古代ギリシヤの地に求めます。そしてその原形をプラトンが書き記した『国家』の中に見出します。その中でプラトンは国家の未来を担う人材育成には高度な哲学的問答の教育が必要だとし、そのための下準備として、算術、幾何学、天文学の習得の重要性を挙げています。この「イデア」へと向かう学びの在り方をもってして多くのヨーロッパ人が「自由学芸」の祖形を見てとるのです。

では、オトグス店主が先程からしつこくこだわってきた「音楽」についてはどうかというと、後に七科のひとつとして組み込まれたということのようです。
さすがに古代ギリシヤの哲人プラトンは、そんな<ややこしい>ものは相手にしなかったのでしょう、、、、、、、、、?!?!(ここに当てはまる絵文字を教えてください!)

と、思いきや! ここが重要なところです。それどころか、それ以前に国家の一員たるものが先ずもって学ぶべき初等教育として「体育」と共に、この「音楽」を挙げているではないですか!

頭がクラクラします。

極東アジアの島国の民でも、<健全な肉体に健全な精神は宿る>的「体育」の重要性は生身の体でもって実感できるのですが、こと「音楽」に関しては、七科の隅っこに置かれてもちょっとした違和感を覚えるというのに、国家の一員たるものが先ずもって学ぶべき対象に「音楽」を挙げられても、芸妓(げいこ)の手習いじゃあるまいし、そんなことをサラリと聞き流せましょうか。国家とはそんなにも艶(つや)っぽいものだったでしょうか。そんなことを本当にみなが実感をもって納得できるというのでしょうか。

もう少しお付き合いください。

プラトンが初等教育に挙げたギュムナスティケー(体育)とムーシケー(音楽)。現代の「体育」とほぼ同義語のようにして語られる「ギュムナスティケー」に対して、「ムーシケー」は、その語源たる「音楽(ミュージック)」以上に多くの含みを持たせて語られています。
それは「リズム」であり「ハーモニー」でありといった文字通りの音楽的要素に限らず、ホメロスをはじめヘシオドスなどの詩作品全体をも含むものとして語られているのです。そして、国家を担いし若者はこのムーシケーをもってして<醜美>を感取し、正しく見分ける能力を身に付けなければならないと説いています。
プラトンは理想の国家を目指すべく書き記した『国家』においてムーシケーとは本来そうあるべきだと説いているのです。(参考文献 「プラトン『国家』におけるムーシケー論」 里中俊介 (著) LINK

ということは逆説的に、実際の世の中ではプラトンが理想とするようなかたちでムーシケーなるものは存在していなかったということです。少なくともプラトンにはそう写ったということです。
『国家』の最終章で、かの有名な詩人の追放にまで話しが及ぶように、ホメロスをはじめ多くの詩人がムーシケーを正しく用いていないと、具体的に多くの詩句を引用しながら批判しているのです。

ここで再確認です。プラトンにとってムーシケーとは、「リズム」であり「ハーモニー」であり、喜・悲劇、叙事詩をも含む詩作品全般であり、後に「自由学芸」にも組み込まれ行くように、人を理性の明るみへと導く存在であり、かつ批判しているように用法を間違えれば、耽溺や欲望の渦へと人を堕落させるという、これまた何とも<ややこしい>存在であったということのようです。

オトグスでは常に物事を単純に見つめます。

ならばどうして、あえてそんな<ややこしい>ものを国家を担いし若者の教育の場へと持ち込まなければいけなかったのでしょうか。
 


 

さあ、やって参りました。
 ようやく<ひねり>の「本丸」の姿が見えて参りました。 
 

 そうです! プラトンがあえて持ち込んだのではなく、現に、そのような毒にも薬にもなり得るかたちで、すでに古代ギリシヤの国民たちの間で、ある種の教育的役割りを担っていたということです。
プラトンはそのムーシケーの在り方を理想へと近付けるべく正そうとしていただけなのです。
そして、そのあまりに理想主義的過ぎた『国家』の後に、より現実に寄り添うかたちで著された『法律』においては、いよいよムーシケーの尻尾を捕まえるべく、より具体的な方策を語るに至ります。
おそらくは現行のムーシケーの受容の在り方を参照しつつ、国家を担いし若年層への教育目的から老若の国民すべてにその間口を広げ、より正しき受容のための具体案が語られるのです。
 

 それがこちらです!
 

 まずは3つの「歌舞団」を作り、老若の国民を年齢に応じてそれぞれに振り分ける。18歳未満の者は「ムーサ」の歌舞団へ、18歳以上30歳未満の者は「アポロン」の歌舞団へ、30歳以上60歳未満の者は「ディオニュソス」の歌舞団へとそれぞれに振り分け、生涯の内いずれかの歌舞団に属しムーシケーに関わるものとする。
そこには文字通り「踊り」なんかも織り交ぜながら、分別のある<おとな>は「酒」の力も借りちゃったりしながら、「韻」を踏んで、「リズム」に身を委ね、ムーシケーでもって<正しきこと>とは何たるかに触れるという。(参考文献 「プラトン『法律』におけるムーシケー論」 里中俊介 (著) LINK

なんのこっちゃわからんでしょう。

こんなヘタな新興宗教の教義にも劣るような方策でもって「真理」へとつながる「理(理性)」を掴み取るとはいったいどういうことでしょうか。


 

 いえいえ、もうお付き合い願わなくても結構です。

 

 こんな世界「わからんちん」なのが当たり前なのです。
前もって言っちゃえば、こんな「わからんちん」の文明の在り方を土台として、ここ2千数百年やってきたのが西欧文明なのです。近代合理主義の<根っ子>をひもとくと、そこには<手垢にまみれた>「理性」が鎌首をもたげるのです。
そんなユーラシア大陸の西の隅っこでこねくり回された「ローカル」な文明の在り方など「わからんちん」で当然なのです。少なくとも、極東アジアの島国の民にとってはそうですし、オセアニアの地の、はたまたベーリング海峡を挟んだ向こうの地の、もといた住人たちにとっても分からないのは当たり前のことなのです。
そんな文明の成り立ちの、特に都市部で築かれ、多くの国民のマインドを規定し、古代の哲人プラトンもアプリオリな前提として受け入れていたもの ―――― まさしくそれが「絵画」や「彫刻」の冷遇の根拠にして、遠近法に代表される「写実」的表現の生まれの里であり、「自由学芸」に引き継がれる「音楽」を基軸として「詩」を育み、そして「理」をつかさどる「個人」の生まれの契機ともなった、文字通りの『場』が実際に存在していたということです。
このアプリオリな前提を抜きにして語るから話がこんがらがってくるのです。
もう、お察しの方もおいででしょうが、そうです。その『場』こそ、古代ギリシアの地で花開いた劇場空間、ギリシア悲劇を代表とする、喜、悲、叙事劇の実際の上演の場、『劇場』そのものだったのです。
 

ディオニューソス劇場 (ギリシア アテネ)
 

 先に見たベラスケスも、リュミエール兄弟も、ベンヤミンの嘆きも、この延長線上に確と鎮座ましましているのです。
そしてポスト・モダン以降の世の中も、何ら変わることなくこの一本道を突き進んでいるように見受けられます。それは見事なほどです。

自分自身を<内省的に対象化する>視点を育むための「文化装置」と、それに付随する「コンテンツ」という、その受容の在り方自体は何ら変わることなく現在に至っているのです。

まさしくこのような「文化装置」を土台として「自由学芸」的なる世界が築かれ、今日の近代合理主義社会へと飛翔させていったのだとオトグスでは考えます。
もとはそうでもなかった地域の人間をも飲み込むかたちで。

では、そこでいったい何が調理されたのでしょうか。はたまた何を調理するために生み出されたのでしょうか?
 


 

 今回でこの「近々、オトグス・ギャラリーがオープンします。」を終わらせる予定でしたが、どうにもこうにも「思い」が肥大化して終われなくなって参りました。
実際の開業準備も、ハード面はほぼ終わっているのですが、ソフト面で思いのほか手こずっております。

ですが、懲りずに、ちょくちょく覗いてみてください。

 


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